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Sunday 15 December, 2019

フェティスのオペラ・コミック《双子姉妹》の復活上演にあたって

フェティス François Joseph-Fétis (1784~1871) 全1幕のオペラ・コミック《双子姉妹》(Les soeurs jumelles)1822年初演

2019年12月14日 復活上演 国立音楽大学オペラ・スタジオ 日本音楽学会支部横断企画シンポジウム 「周縁か中心か?音楽史の中のベルギー 第2回 —— ロマン主義とフェティス(1830~70年)—— 」演奏会

フランソワ=ジョゼフ・フェティス François-Joseph Fétis (1784 - 1871)は19世紀音楽史において巨大な足跡を残したが、今日の音楽史研究に最も強く名を留めているのは評論家・雑誌編集者としての仕事と音楽学者としてのそれであろう。音楽学の分野だけでも音楽理論、音楽史、 音楽批評、音楽資料の収集等々とその活動分野は多岐にわたる。その大きな業績を前にして、私たちの視野の中で背後に退きがちなのは、彼の作曲家としての活動であろう。近年のその器楽作品は耳にする機会が少しづつ増えてきたが、舞台作品については、そのタイトルが作品表等で把握されるだけで、実際の作品に触れる機会は皆無と言ってよい。が、彼が活躍した時代、特にフランス語文化圏における、舞台作品の社会的重要性を考えるとき、それらを等閑に付したままならば、彼の活動、特に19世紀音楽史において一つの重要な転換点である1830年前後におけるそれを把握・理解するにあたって、恐らくは大事な欠落が生じる。加えて、その活動舞台だった、当時のフランスのオペラ・コミックそのものが、音楽史研究において「手薄」な領域の一つと言ってよい。 そのような二つの領域での状況 — フェティス受容と1830年前後のオペラ・コミックの現代における受容状況の中で、わずかながらでも一つ駒を進めるべく、このシンポジウムではフェティスの《双子姉妹 Les soeurs jumelles》をとり上げ上演する。

フェティスは最初期の習作を除けば生涯に7つの舞台作品を書き、オペラ座向けに書いた1824年の Phidiasを除き6つが以下のように上演された。このうち 《スコットランドのマリー・スチュアート》が ”drame lyrique”と、 《ベルガモのマネキン人形》が ”opéra bouffe“ と名づけられている以外はすべて ”opéra comique” の呼称を与えられている。

  • 1820 愛人と夫 L’amant et le mari オペラ・コミック座
  • 1823 双子姉妹 Les soeurs jumelles オペラ・コミック座
  • 1823 スコットランドのマリー・スチュアート Marie Stuart en Ecosse オペラ・コミック座
  • 1825 ランスの町人 Le bourgeois de Reims オペラ・コミック座
  • 1826 老女 La vieille オペラ・コミック座
  • 1832 ベルガモのマネキン人形 Le mannequin de Bergame オペラ・コミック座

1823年の《双子姉妹 Les soeurs jumelles5》は彼の2作目で、E. プラナール Eugène de Planard (1783 - 1853)によって台本が書かれ、オペラ・コミック座(フェドー劇場)で1823/24年シーズンの7月5日に初演された後、 年内に18回上演された。翌1825/26年シーズンに再演となり25年に8回、26年に1回上演されたあと、パリでの上演記録は途絶える。また、ル・アーヴルの劇場で 1827に2回(8月 と10月)上演され、それが最後の上演記録となる。したがって、今回の上演は192年ぶりの再演といういこととなる。

この作品は彼の舞台作品の中で資料状況が良く、次のようなものが現存し、それを利用できることが本企画を可能にした。

  • 出版台本 : Les Soeurs jumelles, opéra comique en 1 acte Chez Mme Huet , 1823 
  • 出版総譜 : Les Soeurs jumelles, Paris, Boieldieu, 18??, 
  • 手書き台本 : Les Sœurs jumelles, Friday 13 June 1823 (Archives nationales de France, AJ/13/1090) 
  • ピアノ・ヴォーカルスコア(全8曲のうちの7曲抜粋) : Les Soeurs jumelles, opéra comique en 1 acte, paroles de M. Planard, morceaux détachés, chant et piano

今回の公演は、ピアノ伴奏による演奏会形式だが、ある程度の動作によって動きが分かるような演出を施している。劇中歌われる8曲はフランス語で、また地の台詞は、時間の関係で約7割ほどに圧縮して日本語訳で語られる。

フィレンツェ近くの田舎町。舞台はラファエルの屋敷の前の木々で囲まれた敷地になっている。奥のほうには屋根付きの小径がある。庭園にはあずま屋、緑のアーチのトンネル。二人の双子姉妹を中心に3人の男たちの思惑が交錯する。

  • ラファエル (オルガニスト) ... 平賀僚太
  • ラファエルの姪・双子姉妹
  • ジュリア ... 島田樹里 
  • ロゼット ... 新福美咲
  • ジョルジーニ (ラファエルの甥・姉妹のいとこ) ... 盛合匠
  • カルロ (ジュリアの夫) ... 田村智仁郎
  • ファビオ (ロゼットに恋する男) ... 横山和紀
  • ピアノ 陣内みゆき
  • ピアノ伴奏版編曲補筆 金田望
  • 台詞日本語訳・字幕 友利修
  • 演奏企画 友利修・安川智子


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Friday 13 September, 2019

シンポジウムのお知らせ「周縁か中心か?音楽史の中のベルギー 第2回:ロマン主義とフェティス(1830~70年)」

2019年12月14日 (土) 13:30 - 国立音楽大学

2019年度日本音楽学会支部横断企画シンポジウムの第2回です。

周縁か中心か?音楽史の中のベルギー 第2回:ロマン主義とフェティス(1830~70年)

~ベルギー人フェティスの影響はどこまで及ぶ?ベルギー・ドイツ・フランスの音楽史言説を比較する~          

  • 進行:椎名亮輔(同志社女子大学)
  • 第1回の報告と趣旨説明:友利修(国立音楽大学)
  • 岩本和子(神戸大学)1830年ベルギー独立とモネ劇場
  • 朝山奈津子(弘前大学)「ネーデルラント」楽派からフランス・フランドル楽派へ:音楽史記述上の変更をめぐって

休憩

(パネルセッション)独・仏・白の音楽史言説――フェティスの遺産

  • 大迫知佳子(広島文化学園大学/ULB)+安川智子(北里大学)「ベルギーのフェティス、フランスのフェティス」
  • 上山典子(静岡文化芸術大学)「『音楽史』の成立――ブレンデルの『イタリア、ドイツおよびフランスにおける音楽の歴史』を中心に」
  • 友利修「歴史意識とネットワーク――装置としての音楽史」

全体ディスカッション

休憩



【演奏会】(16:30以降)オペラ・コミック演奏会(解説つき)

 ※ 会場が変わります → シンポジウム後、新1号館オペラスタジオ N-127に移動 

■グレトリー André-Ernest-Modeste Grétry (1741~1813)のアリア -《シルヴァン》よりソプラノ(エレーヌ)のレチタティーヴォとアリア「Il va venir..je vais l'attendre..」 島田樹里(メゾ・ソプラノ) -《ギョーム・テル》よりバリトン (ゲスラー) のアリア「Non, jamais...」 平賀僚太(バリトン)

■フェティス François Joseph-Fétis (1784~1871) 全1幕のオペラ・コミック《双子姉妹》(Les soeurs jumelles) 演奏会形式上演(ほぼ全曲一部カットあり) 演奏:新福美咲(ソプラノ)、島田樹里(メゾ・ソプラノ)、平賀僚太(バリトン)、陣内みゆき(ピアノ)、 盛合匠(テノール)、横山和紀(テノール)、田村智仁郎(バリトン)

  • 演奏会後、学内施設にて公式懇親会(情報交換会)があります。

                            

主催:日本音楽学会 共催:日本ベルギー学会、ベルギー研究会 後援:ベルギー大使館

周縁か中心か?音楽史の中のベルギー 第2回:ロマン主義とフェティス

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Wednesday 4 September, 2019

シンポジウム 「第一次大戦後の音楽史」 開催のお知らせ

2019年9月7日 (土) 13:30 - 国立音楽大学

大戦間のアメリカの欧州の関係に着目し現代音楽史の読み直しを図った研究を進めている沼野雄司さん、音楽関係の良書の出版を連発して手がけていている中川航さんとの共同企画で、バレエ・リュスの専門家で舞踊史研究家の芳賀直子さん、フィンランド音楽・シベリウスの専門家である神部智さん、ハンガリーそして中東欧音楽史の専門家の伊東信宏さんをお招きし、以下の問題意識を共有しながら用意していただいたパネル発表とディスカッションで構成していきます。

パネルの後には、ソプラノとメゾ・ソプラノのデュオ Jeux Interditsで活躍する新福美咲さん、島田樹里さん、新井千晶さんのピアノ伴奏で、全編ソーゲとプーランクの歌曲で構成した演奏プログラムで、またもう一つの別の角度から第一大戦後の音楽史の一断面を音によって聴いていただきます。 ご参加をお待ちしています(終了後に、登壇者と出席者をまじえた簡単な懇親会あり)

シンポジウム 第一次大戦後の音楽史

現代音楽史における第一次大戦の影響についての考察 —— 20世紀音楽史再考と21世紀音楽の可能性のために

2019年9月7日 (土) 13:30 - 17:30 国立音楽大学 6号館110スタジオ

(立川市柏町5-5-1 西武拝島線または多摩都市モノレール 玉川上水駅より徒歩7分)

入場無料

ラウンドテーブル 13:30 - 16:00

  • 趣旨説明 友利修 (国立音楽大学) 「なぜ今第一次大戦後の状況に目を向けるのか」
  • パネル1 沼野雄司(桐朋学園大学) 「両大戦間のアメリカ音楽: ニューディール期の音楽政策」
  • パネル2 芳賀直子(舞踊史研究家) 「ベル・エポック終焉後のバレエ・リュスを中心に」
  • パネル3 神部智(茨城大学) 「旧秩序の崩壊と国民音楽文化の形成: シベリウスとフィンランド」
  • パネル4 伊東信宏(大阪大学) 「1920年代のハンガリー: 解放と閉塞の交錯」


〈 休息 〉

演奏 16:15 - 16:45 Jeux Interdits (新福美咲 Sop. 島田樹里 Msop. 新井千晶 Pf.) F. Poulenc 《Cocardes》, H. Sauguet 《Une cartes postale》 ほか

ディスカッション 16:45 - 17:30 公式懇親会 17:45 - 18:45

企画・構成 友利修(国立音楽大学)、沼野雄司(桐朋学園大学)、中川航(春秋社)

お問い合わせ : 国立音楽大学音楽学研究室 042-533-9572 (友利、陣内) tomori.osamu@kunitachi.ac.jp

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Monday 8 January, 2018

別れの歌たち

2018年1月7日、まだ正月気分も抜けきらない日の夕方(日本時間)、フランス・ギャルの訃報が臨時ニュースで入ってくる。 いろいろ思うところあるが、それはゆっくり書くとして、13年ほど前(2004年12月30日)に書いた文章を、某SNSの日記からサルヴェージ1。2015年に一度別のSNSお友だち限定で、改稿公開しているが、そのときの版で。


ポール・アンカ=フランク・シナトラによって世界的ヒット曲となるマイウェイのオリジナルが、クロード・フランソワの Comme d'habitude というのはフランスではよく知られている。同居しているパートナーの女性がすでに実質的に別の男性の恋人になっている状況を歌うこの歌が、クロード・フランソワの実体験にもとづいていて、その女性がフランス・ギャルというのも。ところで、フランス・ギャルがクロード・フランソワと別れるきっかけになっとときの彼女の相手は、後に結婚するミシェル・ベルジェだとばかり思い込んでいた。が、それは思い違いというのを、France 3の番組の中のコメントで知った2。France 3 ではこのときのフランス・ギャルの相手はジュリアン・クレールと紹介する。話がますますややこしい。この機会に思い切って調査整理。因縁話は1960年ごろまで遡る。

1959年、歌手として活動をしはじめたばかりの20歳のクロード・フランソワはイギリス人ダンサー、ジャネット・ウーラコット Janet Woollacott と出会い翌年結婚。ジャネットは1962年、ダンサーとして出演したオランピア劇場でジルベール・ベコーに出会い、64年にはそのもとに走る(正式離婚は1967年)3。クロード・フランソワがその苦い思い出の中で作った、とても曲は明るいがノスタルジックな歌詞の "J'y pense et puis j'oublie"(ぼくはその愛を思い、そして忘れる)そして"Je sais" (ぼくは知っている)。1962年のそこ抜けに明るい "Belles belles belles" を彼がその後歌うときにもその苦い思いが込められることになる。

https://www.youtube.com/watch?v=FAO4hEHAaB0

https://www.youtube.com/watch?v=zOLYW4jXl8o

妻がベコーのもとに走ったあとのクロード・フランソワの相手が、フランス・ギャル。が、フランス・ギャルは67年には彼のもとを離れたらしい。そしてフランス・ギャルとの関係の総決算に作って歌ったのが、この年にリリースされた"Comme d'habitude"。クロード・フランソワはこの年にモデルのイザベル・フォレーと出会い翌年家庭を持ち2人の息子を持つ4 。が浮気は止まらず、1972年にはイザベルは彼の元を去る。直後クロードは、社交上の伴侶(fiancée officielle 正式なフィアンセと呼ばれる)にフィンランド人のモデルSofiaを選び、さらに彼女との別離を経て、1976年には15歳年下のアメリカ人のモデル Kathalyn Jones とパリにアパートを構え、1978年にそのアパートの風呂場で感電死。

一方のフランス・ギャル、果たしてジュリアン・クレールのもとに走るためにクロード・フランソワを捨てたかどうかはフランス・ギャル通にでも聞いてみないとわからないが、少なくとも69年にはジュリアン・クレールとの間柄は公然のものに。ついでながから68- 69年ごろジュリアン・クレールはジルベール・ベコーのコンサートの前座をやっていたというが、クロード・フランソワにとっては超嫌な顔ぶれのコンサートだったに違いない。

が、そのジュリアン・クレールとフランス・ギャルも74年には破局。前年にフランス・ギャルはミシェル・ベルジェと出会い、強い絆を作りつつあった。失意のジュリアン・クレールはフランスを離れてコンサートツアー。75年に来日したのもその因縁。そして75年に作って歌ったのが、"Souffrir par toi n'est pas souffrir (君のために苦しむのは苦しみじゃない)"という泣かせる歌詞の歌。「ある日君が戻ってきたいと思ったら/言い訳も、涙も、微笑みさえもなく/...今、まえと同じように/静かに、青ざめもせず、嘘もなく、苦しむこともなく/今日、ぼくは君に言うだろう/君のために苦しむのは苦しみじゃないと...」これもメジャーの明るい曲。

https://www.youtube.com/watch?v=w_bI9pP56UE

しかし、こんな歌のかいなく、フランス・ギャルは戻ってくることなく、ミシェル・ベルジェと76年に結婚。ベルジェが92年に44歳で亡くなるまで、音楽的にも私生活上も黄金のパートナーシップを維持していくことになる 5

一方のミシェル・ベルジェ、時計の針を戻せば、1960年代末にヴェロニク・サンソンと出会い、1970にはその最初のアルバムをプロデュース。音楽が先かプライベートが先かわからないがその頃からずっと私的なパートナー。ところが、1972年に、ヴェロニク・サンソンは来仏した CSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)のスティーヴン・スティルスと電撃的恋愛、アメリカへ渡り、1973年には結婚6 。 フランス・ギャルとのパートナーシップによってベルジェは比較的早く立ち直ることになるが、その失意は、73年にフランソワーズ・アルディのために書いた "Message Personnel" にこめられているという。「だけどもしある日、君がぼくを愛していると思ったら/思い出が邪魔になるなんて思わないで/息が切れるまで走って、走って/ぼくにもう一度会いにきてほしい..」。曲調はマイナーだがさらりとしている。

フランソワーズ・アルデイでなくミシェル・ベルジェのヴァージョンは

https://www.youtube.com/watch?v=1R_rvzFKaqM

現役で生き残った ジュリアン・クレール、ヴェロニク・サンソン、フランス・ギャルのこの後のエピソードもいろいろとある筈だが、まるで風がふけば桶やがもうかるの世界で、きりがないので整理はここまで。ああ、ややこしかった。

まとめ。フランスの男性ミュージシャンは、彼女・妻が他のミュージシャンのもとに走るという目にあい、逃げられたあと失意の中で、明るめのあるいはさらりとした曲調で、未練たっぷりの歌詞の「別れの歌」を作り歌ってヒットさせる。相手が戻ってくることはないが、印税は入り、そして早めに次の相手をみつける。


  1. 後から分かったこともあるけど面倒なので追記は注にしてそのまま転載。音源へのリンクだけYouTubeのものを。これを書いた時はYouTubeがまだなかった。 ↩︎
  2. 2004年12月28日放映のFrance3の番組。最初に書いたときのこの文章の前ふり—— 「2004年12月28日の夜、France 3 で60年代の人気歌手たちをを特集した2時間ものの番組を見る。新発見やエピソードの宝庫だが、とりあえず一つだけ気になっていた話を。」 ↩︎
  3. ジャネット・ウーラコットはブリュネットで、この後クロード・フランソワが恋人にした女性はすべてブロンドだったのはよく知られた話だとクロクロファンだった妙齢のフランス人の女性が、この離婚の話が話題になったときに、教えてくれた。真偽を追求するのは事の性質上ちょっと難しい。 ↩︎
  4. イザベル・フォレとは家を構え母親と同居し、息子2人をもうけ社交上もメディアも二人を夫妻として扱っていたが、実は正式には結婚していなかったという衝撃の事実を最近知る。結婚したのはジャネット・ウーラコット一人だけだったということになる。 ↩︎
  5. フランス・ギャルは日本では1960年代の歌で知られているが、彼女自身にとってこのアイドル時代は「黒歴史」のようで、自分のミージュシャンとしてのキャリアを1974年にミシェル・ベルジェとコラボレーションを開始したことにしている。彼女は2004年にキャリア30周年記念という大々的な行事をやりメディアにも大きく取り上げられたが、そこで、彼女もメディアもそれ以前の彼女の歴史を抹殺していた。 ina.fr Anthologie des 30 ans de carrière de France GALL ↩︎
  6. その辺まで煙草を買いに行ってくると言ったまま家を出て駆け落ちしたと、ヴェロニク・サンソン自身が後に語っている。 ↩︎
Posté par O.T.

Saturday 31 October, 2015

ハロウィーンと蝶々

(日本のハロウィーン、次第に都市文化として根づいていくる。証言的に某所に書いた5年前の2010年の日記「猫耳では手抜きだった」を改題して転載。)



某月某日土曜日、中央線のずっと向こうで一仕事終えたあと、カボチャ色の服に着替えて、台風の豪雨の中、大江戸線に乗り継いで港区の地下音盤舞踏場ナバーナへ。



万聖節前夜祭の仮装舞踏会参戦という重大業務が待っている。昨年所用あって出られなかったのでデビュタンということになるが、適切なコスチュームを準備する余裕がないので、カボチャ色のシャツと、簡単な猫耳でお茶を濁す。



続々人が集まるごとに、レベルの高さを痛切に思い知る。いわゆるアニメ系ではない、思い思いの自由なコスプレが基本と言っていいだろうか。男は完全女装と、着ぐるみが基本レベルと言っていいくらいのハードルの高さ。その中でカボチャシャツと猫耳だけでは、最低限、礼儀を失しない程度のもの。夜が進んで行くと、女性陣の中には途中で新たなコスチュームに着替えてお色直しする強者も。現在40代後半、50代初頭の世代の女性のこの種の遊びにかける情熱を今更ながら思い知る。



プロレスラの体格の今日だけ女性の隣でルーズソックスのママ女子高生が、 ベルバラのロココ巻き毛の貴婦人の向かいで諸肌脱ぎの893のお兄さんが、何も仮装してこなかったために逆に地で仮装になったしまったセレブ風のアラフィフワンピース女子と異形の動物が仲良く、アラブの王様と尻尾の生えた魔女が談笑しながら、皆、ひたすら踊る、踊る、踊る。



馬車がとっくにカボチャなってしまっている時間に地上に出てみると、雨はすっかり止んでいて、六本木交差点はまるでお正月の人出。 違うのはみんな仮装してたこと。カルチエ全体がまるで仮装行列になっている。



ハロウィンって、現代日本の都市文化にいつの間にすっかり根づいているんだとその時はじめて気がついた。日本では、浅草なんかでカーニバルの行事はあっても、行列参加者以外が仮装する機会がないから、ハロウィンがカーニバルの代わりになっているのかとも思う。



翌日ぼうっとしながら、シューマンの《パピヨン Papillons》Op.2と、彼のこの作品にインスピレーションを与えた、ジャン・パウルの小説『生意気ざかり Flegeljahre』のことを考えていた。



仮装舞踏会は、詩の遊び心に対し、現実の生活が実際にそれを遊んでみるものとしては最高のものだ。詩人の前で社会階層や時間が平等で、あらゆる外面的な物が衣装に過ぎず、内面的なものすべてが、快楽であり、音の響きであるように、ここでは人々は自分と人生を自分で詩にする。最も古めかしい衣装や物腰が新しいそれの前で蘇る。極端な荒々しさ、社会的な上品さ、粗野、辛辣な風刺といった、他所では触れ合うことがないもの、様々な季節や宗教、あらゆる敵対しあうもの親しいものが、軽やかで、喜びに溢れた輪の中で丸く一つになる。そしてその輪は、まるで詩の韻律を得たように、つまり音楽の中で、輝かしく動き出す。そこでは音楽は魂の故郷であり、仮装は肉体の故郷である。 ~ジャン・パウル、『生意気ざかり』第63章より



なんか、昨夜目の前で繰り広げられていたことそのものじゃないか。



そして、このジャン・パウルのテキスト、再読し訳しながら、いくつかのことに改めて気づく。



上の引用で「仮装舞踏会」と訳したもの ― まあほんとは「仮装ダンスパーティ」としたほうがもっと実感は出るけど ― の原語は Ball en masque で、普通には「仮面舞踏会」と訳すことになると思うが、「仮面」ではなく「仮装」としないとこの小説の中で行われていることの実情にそぐわない。「仮面舞踏会」と日本語でいうと、貴婦人たちが目のあたりを覆ったマスクをしているシーンを思い浮かべるが、19世紀ドイツの市民階級のばか騒ぎでは、それでは済まない。なにせ小説中では「巨大な長靴」に仮装したりするわけだから。



さらには、上の引用の「仮装は肉体の故郷である」と訳したくだり、実は原文では、"die Masken das Land der Körper sind"となっていて、このMaskenを、文脈がそう要請するからといっても、「衣装」と意訳すのはそうとうに無理かなと思っていたたら、シューマン研究者でこのテキストを読み込んでいるはずの John Daverio はこの Masken = masks を、あっさりと "fancy-dress outfits" と訳している。なんだ、やっぱりそれでいいんじゃん。研究者って、やっぱり勇気だよなあ、と思う。



シューマンの《パピヨン》はライプツィヒ、ハイデルベルクで大学生として当時のポピュラー曲で朝まで騒ぎ、(もしかして仮装もして)踊っていたシューマンの体験を想像に入れないと、キッチュなもの、俗っぽいもの、シリアスなものの脈絡のない同居、並置が醸し出す、この曲がもっているある種の空気、そのざわめきが理解しにくいと思う。シューマンの中には、キッチュなものに対する弱みと、そして、キッチュなものへの、キッチュなものに弱みがある自分への皮肉な目線が交錯していて、それがこの曲をさらに多層的なものにしているんじゃないかなと思う。



人は、メシアンの《世の終わりのための四重奏曲》を理解するために、なにもナチの捕虜収容所で過ごした経験が必要であるわけではない。しかし、シューマンの《パピヨン》や《謝肉祭》のキッチュな部分を、大真面目な詩人の夢に、深刻なものにしてしまう演奏や批評ばかりだと、ねえ、仮装して朝まで踊ってみるともっと若者シューマンとお友だちになれるかもよ、と思わず言いたくなってしまう。



ということで、シューマン研究のはじっこに首をつっこんでいる私としては、11月、12月はフィールドワーク強化月間。

Posté par O.T.

Sunday 10 May, 2015

サン=サーンス 「そんなところから私はリストの音楽が好きなのだ」

Camille Saint-Saëns, "Causerie musicale", La nouvelle revue, Première année, tome 1, 1879, pp. 634 - 649

現在、音楽の世界にははっきりと違う2つの思潮がある。

片方は、まず何より、旋律を擁護する派である。そしてもう片方は、何よりも、 品格 distinction を求める派である。私はそのどちらの意見にも与しない。

人は旋律の助けを借りずとも傑作を作ることができる。[…] 旋律には、誰も否定することのできない、それ独自の役割があるが、その領分を越えるべきではない。でないとするならば、旋律を欠いたあれほどたくさんの音楽、あるいは音楽の一部の最高の美しさをどう説明すればいいだろうか。

もう一つの流れ、品格のそれは、違う道を通ってやはり、間違った状態に至っているように私には思われる。この流れはドイツの楽派全体、フランスの音楽愛好家のかなりの部分をとらえている。その見解においては、旋律は蔑まれている。ほとんど恐れられているとさえ言える。あらゆる自発的なフレーズ、心や感覚のあらゆる高揚は、厳しく抑圧されている。が、そこには品格はない。ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンは赤面させるような赤裸々なものも書いている。ハイドンは笑いを愛し、すばらしいアダージョの最後に、恐ろしく場違いなものを置いている。今日いったい誰が同じくらいのことをあえてできるだろう? 誰もいない。

芸術においては、本性におけるそれと同じように、肩を比べるもののない無意識や生まれによる品格というものがある。一方に、品格があるように見せようとする人間の品格、卑俗さの裏返しにかすぎないものもある。私たちの時代の音楽を窮屈にしているのは、考えが狭く上品ぶった品格というものである。芸術は卑俗であったり、品格があったりするべきものではなく、芸術的であるべきものである。この二つのことはまったく違う。

品格についてのこの病的な執着が今日のドイツ楽派全体を損ねているように私には思われる。初期の作品ではあれほど場違いな俗っぽさをしばしば見せていたリヒャルト・ワーグナーさえもをも含め、この病に襲われていないものはいない。指輪四部作の登場人物たちは駄洒落をとばし、卑猥な言葉を使うが、その一方で、音楽は鼻にかかったような傑作な紳士ぶりを守っている。古典楽派 l'école classique はといえば、ブラームスを筆頭に、さらに最悪だ。もったいぶった芸術。そこでは田舎の小さな町の信心家ぶったサロンで退屈する感じに似る。暑苦しく息がつまる。死にそうなくらい。そんなところから私はリストの音楽が好きなのだ。彼は、人がなんと言うだろうかをまったく気にしなかったし、自分の音楽が言いたいことを、それをいちばん分かりやすく伝えるにはどうしたらいいか以外のことは気にせず、言った。そして聴衆を、ドイツ音楽が引き込んだこの狭い道から引っ張り出すために、 器楽において、「標題音楽 la musique à programme」のやり方に正面から取り組まなければいけないと私が理解したのはこの点にある。

(pp. 644 - 645)

http://books.google.fr/books?id=J_RYAAAAYAAJ&pg=PA634#v=onepage

La distinciton とはいい得て妙。彼のこの辺の気分に頭を戻して考えるといろんなことがちょっと風通しがよくなるかも。

Posté par O.T.

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