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Monday 8 January, 2018

別れの歌たち

2018年1月7日、まだ正月気分も抜けきらない日の夕方(日本時間)、フランス・ギャルの訃報が臨時ニュースで入ってくる。 いろいろ思うところあるが、それはゆっくり書くとして、13年ほど前(2004年12月30日)に書いた文章を、某SNSの日記からサルヴェージ1。2015年に一度別のSNSお友だち限定で、改稿公開しているが、そのときの版で。


ポール・アンカ=フランク・シナトラによって世界的ヒット曲となるマイウェイのオリジナルが、クロード・フランソワの Comme d'habitude というのはフランスではよく知られている。同居しているパートナーの女性がすでに実質的に別の男性の恋人になっている状況を歌うこの歌が、クロード・フランソワの実体験にもとづいていて、その女性がフランス・ギャルというのも。ところで、フランス・ギャルがクロード・フランソワと別れるきっかけになっとときの彼女の相手は、後に結婚するミシェル・ベルジェだとばかり思い込んでいた。が、それは思い違いというのを、France 3の番組の中のコメントで知った2。France 3 ではこのときのフランス・ギャルの相手はジュリアン・クレールと紹介する。話がますますややこしい。この機会に思い切って調査整理。因縁話は1960年ごろまで遡る。

1959年、歌手として活動をしはじめたばかりの20歳のクロード・フランソワはイギリス人ダンサー、ジャネット・ウーラコット Janet Woollacott と出会い翌年結婚。ジャネットは1962年、ダンサーとして出演したオランピア劇場でジルベール・ベコーに出会い、64年にはそのもとに走る(正式離婚は1967年)3。クロード・フランソワがその苦い思い出の中で作った、とても曲は明るいがノスタルジックな歌詞の "J'y pense et puis j'oublie"(ぼくはその愛を思い、そして忘れる)そして"Je sais" (ぼくは知っている)。1962年のそこ抜けに明るい "Belles belles belles" を彼がその後歌うときにもその苦い思いが込められることになる。

https://www.youtube.com/watch?v=FAO4hEHAaB0

https://www.youtube.com/watch?v=zOLYW4jXl8o

妻がベコーのもとに走ったあとのクロード・フランソワの相手が、フランス・ギャル。が、フランス・ギャルは67年には彼のもとを離れたらしい。そしてフランス・ギャルとの関係の総決算に作って歌ったのが、この年にリリースされた"Comme d'habitude"。クロード・フランソワはこの年にモデルのイザベル・フォレーと出会い翌年家庭を持ち2人の息子を持つ4 。が浮気は止まらず、1972年にはイザベルは彼の元を去る。直後クロードは、社交上の伴侶(fiancée officielle 正式なフィアンセと呼ばれる)にフィンランド人のモデルSofiaを選び、さらに彼女との別離を経て、1976年には15歳年下のアメリカ人のモデル Kathalyn Jones とパリにアパートを構え、1978年にそのアパートの風呂場で感電死。

一方のフランス・ギャル、果たしてジュリアン・クレールのもとに走るためにクロード・フランソワを捨てたかどうかはフランス・ギャル通にでも聞いてみないとわからないが、少なくとも69年にはジュリアン・クレールとの間柄は公然のものに。ついでながから68- 69年ごろジュリアン・クレールはジルベール・ベコーのコンサートの前座をやっていたというが、クロード・フランソワにとっては超嫌な顔ぶれのコンサートだったに違いない。

が、そのジュリアン・クレールとフランス・ギャルも74年には破局。前年にフランス・ギャルはミシェル・ベルジェと出会い、強い絆を作りつつあった。失意のジュリアン・クレールはフランスを離れてコンサートツアー。75年に来日したのもその因縁。そして75年に作って歌ったのが、"Souffrir par toi n'est pas souffrir (君のために苦しむのは苦しみじゃない)"という泣かせる歌詞の歌。「ある日君が戻ってきたいと思ったら/言い訳も、涙も、微笑みさえもなく/...今、まえと同じように/静かに、青ざめもせず、嘘もなく、苦しむこともなく/今日、ぼくは君に言うだろう/君のために苦しむのは苦しみじゃないと...」これもメジャーの明るい曲。

https://www.youtube.com/watch?v=w_bI9pP56UE

しかし、こんな歌のかいなく、フランス・ギャルは戻ってくることなく、ミシェル・ベルジェと76年に結婚。ベルジェが92年に44歳で亡くなるまで、音楽的にも私生活上も黄金のパートナーシップを維持していくことになる 5

一方のミシェル・ベルジェ、時計の針を戻せば、1960年代末にヴェロニク・サンソンと出会い、1970にはその最初のアルバムをプロデュース。音楽が先かプライベートが先かわからないがその頃からずっと私的なパートナー。ところが、1972年に、ヴェロニク・サンソンは来仏した CSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)のスティーヴン・スティルスと電撃的恋愛、アメリカへ渡り、1973年には結婚6 。 フランス・ギャルとのパートナーシップによってベルジェは比較的早く立ち直ることになるが、その失意は、73年にフランソワーズ・アルディのために書いた "Message Personnel" にこめられているという。「だけどもしある日、君がぼくを愛していると思ったら/思い出が邪魔になるなんて思わないで/息が切れるまで走って、走って/ぼくにもう一度会いにきてほしい..」。曲調はマイナーだがさらりとしている。

フランソワーズ・アルデイでなくミシェル・ベルジェのヴァージョンは

https://www.youtube.com/watch?v=1R_rvzFKaqM

現役で生き残った ジュリアン・クレール、ヴェロニク・サンソン、フランス・ギャルのこの後のエピソードもいろいろとある筈だが、まるで風がふけば桶やがもうかるの世界で、きりがないので整理はここまで。ああ、ややこしかった。

まとめ。フランスの男性ミュージシャンは、彼女・妻が他のミュージシャンのもとに走るという目にあい、逃げられたあと失意の中で、明るめのあるいはさらりとした曲調で、未練たっぷりの歌詞の「別れの歌」を作り歌ってヒットさせる。相手が戻ってくることはないが、印税は入り、そして早めに次の相手をみつける。


  1. 後から分かったこともあるけど面倒なので追記は注にしてそのまま転載。音源へのリンクだけYouTubeのものを。これを書いた時はYouTubeがまだなかった。 ↩︎
  2. 2004年12月28日放映のFrance3の番組。最初に書いたときのこの文章の前ふり—— 「2004年12月28日の夜、France 3 で60年代の人気歌手たちをを特集した2時間ものの番組を見る。新発見やエピソードの宝庫だが、とりあえず一つだけ気になっていた話を。」 ↩︎
  3. ジャネット・ウーラコットはブリュネットで、この後クロード・フランソワが恋人にした女性はすべてブロンドだったのはよく知られた話だとクロクロファンだった妙齢のフランス人の女性が、この離婚の話が話題になったときに、教えてくれた。真偽を追求するのは事の性質上ちょっと難しい。 ↩︎
  4. イザベル・フォレとは家を構え母親と同居し、息子2人をもうけ社交上もメディアも二人を夫妻として扱っていたが、実は正式には結婚していなかったという衝撃の事実を最近知る。結婚したのはジャネット・ウーラコット一人だけだったということになる。 ↩︎
  5. フランス・ギャルは日本では1960年代の歌で知られているが、彼女自身にとってこのアイドル時代は「黒歴史」のようで、自分のミージュシャンとしてのキャリアを1974年にミシェル・ベルジェとコラボレーションを開始したことにしている。彼女は2004年にキャリア30周年記念という大々的な行事をやりメディアにも大きく取り上げられたが、そこで、彼女もメディアもそれ以前の彼女の歴史を抹殺していた。 ina.fr Anthologie des 30 ans de carrière de France GALL ↩︎
  6. その辺まで煙草を買いに行ってくると言ったまま家を出て駆け落ちしたと、ヴェロニク・サンソン自身が後に語っている。 ↩︎
Posté par O.T.

Saturday 31 October, 2015

ハロウィーンと蝶々

(日本のハロウィーン、次第に都市文化として根づいていくる。証言的に某所に書いた5年前の2010年の日記「猫耳では手抜きだった」を改題して転載。)



某月某日土曜日、中央線のずっと向こうで一仕事終えたあと、カボチャ色の服に着替えて、台風の豪雨の中、大江戸線に乗り継いで港区の地下音盤舞踏場ナバーナへ。



万聖節前夜祭の仮装舞踏会参戦という重大業務が待っている。昨年所用あって出られなかったのでデビュタンということになるが、適切なコスチュームを準備する余裕がないので、カボチャ色のシャツと、簡単な猫耳でお茶を濁す。



続々人が集まるごとに、レベルの高さを痛切に思い知る。いわゆるアニメ系ではない、思い思いの自由なコスプレが基本と言っていいだろうか。男は完全女装と、着ぐるみが基本レベルと言っていいくらいのハードルの高さ。その中でカボチャシャツと猫耳だけでは、最低限、礼儀を失しない程度のもの。夜が進んで行くと、女性陣の中には途中で新たなコスチュームに着替えてお色直しする強者も。現在40代後半、50代初頭の世代の女性のこの種の遊びにかける情熱を今更ながら思い知る。



プロレスラの体格の今日だけ女性の隣でルーズソックスのママ女子高生が、 ベルバラのロココ巻き毛の貴婦人の向かいで諸肌脱ぎの893のお兄さんが、何も仮装してこなかったために逆に地で仮装になったしまったセレブ風のアラフィフワンピース女子と異形の動物が仲良く、アラブの王様と尻尾の生えた魔女が談笑しながら、皆、ひたすら踊る、踊る、踊る。



馬車がとっくにカボチャなってしまっている時間に地上に出てみると、雨はすっかり止んでいて、六本木交差点はまるでお正月の人出。 違うのはみんな仮装してたこと。カルチエ全体がまるで仮装行列になっている。



ハロウィンって、現代日本の都市文化にいつの間にすっかり根づいているんだとその時はじめて気がついた。日本では、浅草なんかでカーニバルの行事はあっても、行列参加者以外が仮装する機会がないから、ハロウィンがカーニバルの代わりになっているのかとも思う。



翌日ぼうっとしながら、シューマンの《パピヨン Papillons》Op.2と、彼のこの作品にインスピレーションを与えた、ジャン・パウルの小説『生意気ざかり Flegeljahre』のことを考えていた。



仮装舞踏会は、詩の遊び心に対し、現実の生活が実際にそれを遊んでみるものとしては最高のものだ。詩人の前で社会階層や時間が平等で、あらゆる外面的な物が衣装に過ぎず、内面的なものすべてが、快楽であり、音の響きであるように、ここでは人々は自分と人生を自分で詩にする。最も古めかしい衣装や物腰が新しいそれの前で蘇る。極端な荒々しさ、社会的な上品さ、粗野、辛辣な風刺といった、他所では触れ合うことがないもの、様々な季節や宗教、あらゆる敵対しあうもの親しいものが、軽やかで、喜びに溢れた輪の中で丸く一つになる。そしてその輪は、まるで詩の韻律を得たように、つまり音楽の中で、輝かしく動き出す。そこでは音楽は魂の故郷であり、仮装は肉体の故郷である。 ~ジャン・パウル、『生意気ざかり』第63章より



なんか、昨夜目の前で繰り広げられていたことそのものじゃないか。



そして、このジャン・パウルのテキスト、再読し訳しながら、いくつかのことに改めて気づく。



上の引用で「仮装舞踏会」と訳したもの ― まあほんとは「仮装ダンスパーティ」としたほうがもっと実感は出るけど ― の原語は Ball en masque で、普通には「仮面舞踏会」と訳すことになると思うが、「仮面」ではなく「仮装」としないとこの小説の中で行われていることの実情にそぐわない。「仮面舞踏会」と日本語でいうと、貴婦人たちが目のあたりを覆ったマスクをしているシーンを思い浮かべるが、19世紀ドイツの市民階級のばか騒ぎでは、それでは済まない。なにせ小説中では「巨大な長靴」に仮装したりするわけだから。



さらには、上の引用の「仮装は肉体の故郷である」と訳したくだり、実は原文では、"die Masken das Land der Körper sind"となっていて、このMaskenを、文脈がそう要請するからといっても、「衣装」と意訳すのはそうとうに無理かなと思っていたたら、シューマン研究者でこのテキストを読み込んでいるはずの John Daverio はこの Masken = masks を、あっさりと "fancy-dress outfits" と訳している。なんだ、やっぱりそれでいいんじゃん。研究者って、やっぱり勇気だよなあ、と思う。



シューマンの《パピヨン》はライプツィヒ、ハイデルベルクで大学生として当時のポピュラー曲で朝まで騒ぎ、(もしかして仮装もして)踊っていたシューマンの体験を想像に入れないと、キッチュなもの、俗っぽいもの、シリアスなものの脈絡のない同居、並置が醸し出す、この曲がもっているある種の空気、そのざわめきが理解しにくいと思う。シューマンの中には、キッチュなものに対する弱みと、そして、キッチュなものへの、キッチュなものに弱みがある自分への皮肉な目線が交錯していて、それがこの曲をさらに多層的なものにしているんじゃないかなと思う。



人は、メシアンの《世の終わりのための四重奏曲》を理解するために、なにもナチの捕虜収容所で過ごした経験が必要であるわけではない。しかし、シューマンの《パピヨン》や《謝肉祭》のキッチュな部分を、大真面目な詩人の夢に、深刻なものにしてしまう演奏や批評ばかりだと、ねえ、仮装して朝まで踊ってみるともっと若者シューマンとお友だちになれるかもよ、と思わず言いたくなってしまう。



ということで、シューマン研究のはじっこに首をつっこんでいる私としては、11月、12月はフィールドワーク強化月間。

Posté par O.T.

Sunday 10 May, 2015

サン=サーンス 「そんなところから私はリストの音楽が好きなのだ」

Camille Saint-Saëns, "Causerie musicale", La nouvelle revue, Première année, tome 1, 1879, pp. 634 - 649

現在、音楽の世界にははっきりと違う2つの思潮がある。

片方は、まず何より、旋律を擁護する派である。そしてもう片方は、何よりも、 品格 distinction を求める派である。私はそのどちらの意見にも与しない。

人は旋律の助けを借りずとも傑作を作ることができる。[…] 旋律には、誰も否定することのできない、それ独自の役割があるが、その領分を越えるべきではない。でないとするならば、旋律を欠いたあれほどたくさんの音楽、あるいは音楽の一部の最高の美しさをどう説明すればいいだろうか。

もう一つの流れ、品格のそれは、違う道を通ってやはり、間違った状態に至っているように私には思われる。この流れはドイツの楽派全体、フランスの音楽愛好家のかなりの部分をとらえている。その見解においては、旋律は蔑まれている。ほとんど恐れられているとさえ言える。あらゆる自発的なフレーズ、心や感覚のあらゆる高揚は、厳しく抑圧されている。が、そこには品格はない。ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンは赤面させるような赤裸々なものも書いている。ハイドンは笑いを愛し、すばらしいアダージョの最後に、恐ろしく場違いなものを置いている。今日いったい誰が同じくらいのことをあえてできるだろう? 誰もいない。

芸術においては、本性におけるそれと同じように、肩を比べるもののない無意識や生まれによる品格というものがある。一方に、品格があるように見せようとする人間の品格、卑俗さの裏返しにかすぎないものもある。私たちの時代の音楽を窮屈にしているのは、考えが狭く上品ぶった品格というものである。芸術は卑俗であったり、品格があったりするべきものではなく、芸術的であるべきものである。この二つのことはまったく違う。

品格についてのこの病的な執着が今日のドイツ楽派全体を損ねているように私には思われる。初期の作品ではあれほど場違いな俗っぽさをしばしば見せていたリヒャルト・ワーグナーさえもをも含め、この病に襲われていないものはいない。指輪四部作の登場人物たちは駄洒落をとばし、卑猥な言葉を使うが、その一方で、音楽は鼻にかかったような傑作な紳士ぶりを守っている。古典楽派 l'école classique はといえば、ブラームスを筆頭に、さらに最悪だ。もったいぶった芸術。そこでは田舎の小さな町の信心家ぶったサロンで退屈する感じに似る。暑苦しく息がつまる。死にそうなくらい。そんなところから私はリストの音楽が好きなのだ。彼は、人がなんと言うだろうかをまったく気にしなかったし、自分の音楽が言いたいことを、それをいちばん分かりやすく伝えるにはどうしたらいいか以外のことは気にせず、言った。そして聴衆を、ドイツ音楽が引き込んだこの狭い道から引っ張り出すために、 器楽において、「標題音楽 la musique à programme」のやり方に正面から取り組まなければいけないと私が理解したのはこの点にある。

(pp. 644 - 645)

http://books.google.fr/books?id=J_RYAAAAYAAJ&pg=PA634#v=onepage

La distinciton とはいい得て妙。彼のこの辺の気分に頭を戻して考えるといろんなことがちょっと風通しがよくなるかも。

Posté par O.T.

Monday 4 May, 2015

『フィガロの結婚』の社会史

[国立音楽大学大学院オペラ2014 モーツァルト歌劇「フィガロの結婚」K.492 2014年10月18/19日のプログラムへの寄稿]

モーツァルトの『フィガロの結婚』について、その社会的・歴史的な面に少しでも触れるとき、必ずと言っていいほど真っ先に出てくるキーワードは「フランス革命」でしょう。このオペラが初演された1786年5月から3年と2ヶ月後の1789年7月にパリのバスティーユ襲撃事件がおこり、フランス革命の幕が切って落とされました。この時間的な近さに加え、このオペラの中を貫いて流れる、風刺を通した王侯貴族への批判のトーンが革命との連想に大きく与っています。

「フィガロの結婚でもうフランス革命は動き出していた」とナポレオンがすでに述べていたことがその『回想録』によって伝えられています。革命の時代を主役として生きた人物のこの言葉は、この連想が、単なる後世の人々の思いつきだけではないことを示しています。

ただし、ここでナポレオンが言っているのは、直接にはモーツァルトのオペラというより、原作であるボーマルシェの戯曲についてだと考えたほうがいいでしょう。現代の私たち、特にフランス語文化圏以外の人々は、モーツァルトのオペラの、国を超えた成功と長い影響力のために、原作となったフランスの戯曲のほうをオペラのフィルターを通して見がちです。しかし、モーツァルトがこのオペラを書いたときには、そしてそのしばらく後も、むしろ戯曲のほうが国際的に注目された存在でした。『フィガロの結婚』は同時代の話題の文学作品を、しかもかなり原作に忠実な形で取り上げたものでした。そして、モーツァルトの書いたオペラの中でも、こうしたカテゴリーに入るほぼ唯一の作品です。

『フィガロ』の社会性・政治性については、原作やオペラのテキスト (そしてそれに対するモーツァルトの音楽づけ)、あるいはその両方について両者の比較とともに、風刺や政治批判の要素を手始めに、そこに見られる思想性を読み解くことは比較的よく行われてきました。最近では女性論の観点からの読みも深まっています。さらに新しい種々の観点からの読み解きが今後もなされていくでしょう。

この小文では、しかし、こうしたテキストの読み解きに比べるとやや見過ごされがちな別の角度から、この作品の担っていた社会的意味を見たいと思います。両作品が具体的にどのような時代の文脈の中で生まれ受け入れられたかという観点です。そうして、原作の戯曲の成立からオペラの上演にいたる過程を見ると、二つの作品が共有していた時代性、それらの社会史的な位置がよりはっきりと浮かびあがってきます。

●ボーマルシェ - 「狂乱の一日、あるいはフィガロの結婚」

ボーマルシェ (ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェ 1732 - 1799) は、何者であったかを一言ではとうてい言い表せないほど多方面で活動し波乱の人生を送った人物でした。とりあえず作家としての代表作は『セビリアの理髪師』そして、正式なタイトルよりもその副題で知られる『狂乱の一日、あるいはフィガロの結婚 La folle journée, ou le mariage de Figaro』と言うことができます。

『フィガロの結婚』のパリの王立劇場コメディ・フランセーズで行われた初演は1784年4月で、すなわちオペラの初演に約2年先立ちます。ただし、戯曲が書き始められたのはそれよりずっと早い時期で、初演の6年前1778年には一旦の完成を見ていたとされています。この戯曲の場合1781年にコメディ・フランセーズの作品公募審査を通過した後、3年間の検閲の過程によって上演が遅れました。この6年の待ち時間や検閲の問題については、具体的に事情を見ると興味深い事実が分かってきます。

まず、初演以前にもパリの知識階級・上流階級の人々にはこの戯曲に触れる様々な機会があったということです。戯曲はサロンで朗読され批評や会話の対象となりました。もう少し大がかりに私的な場での上演という形もとられました。テキストが回覧されました。そうした中で、この作品の評判はボーマルシェの支持者を中心に高まり、それは宮廷の中の有力な人物もいます。特に宮廷で王側近として影響力を持つ女性たちがルイ16世に上演に向けての圧力をかけていました。

この「圧力」に王や反対派は検閲の制度で対抗しました。検閲を担当する役職にしばしばあてられている検閲官という訳語は誤解を呼びやすいもので、彼らは官吏ではなく、それなりに地位のある文学者であり、名誉職としてそれを引き受けていました。検閲においては、作品の公開可否、修正点が審査され、そこでは政治的、道徳的なものが主眼であることはもちろんですが、芸術的な規範も価値判断に含まれていました。そして、ボーマルシェのような有名人の場合、検閲人たちとも人脈がつながっていました。検閲人は1人ではなく、この作品では延べ6人が検閲の過程に参加しましたが、その意見は様々で、その過程にはボーマルシェ派と反対派の政治的なかけひきが複雑にからみあっています。

こうした検閲の過程は逆にこの作品に上演前に大きな話題性を与えました。そして啓蒙主義的な考えを持つ人々のネットワークを通じてこの作品への関心は外国へも及んでいきます。

この作品の国際的な話題性は出版の実態からもうかがえます。初演直後に戯曲が出版されると、翌85年にはストックホルム、ゲント、ドレスデン、ニュールンベルクなど外国でもフランス語版の海賊版が出版されます。この年にはまた英語の翻訳がロンドンで、ドイツ語は複数の翻訳がニュールンベルク、ライプツィヒ、ミュンヘン、デッサウ、ベルリンで出版されました。

こうした外国での人気、またフランス語のまま外国でも読まれるという現象は、ボーマルシェが影響を受けた一つ上の世代の人たち、啓蒙思想家たちの著作の例を追うものです。

奇しくも彼の『フィガロ』の成立・上演がまるで節目でもあるかのように、代表的な啓蒙思想家たちが世界史の舞台から去っていきました。ヴォルテールとルソーは戯曲の完成した1778年に亡くなっています。そして百科全書派の中心的な二人、ダランベールとディドロは、戯曲初演に前後する1783年と84年にそれぞれ亡くなっています。国内外でボーマルシェの戯曲が読者を獲得したのは、これら啓蒙思想家たちの著作が地ならしをした社会層においてです。ボーマルシェ自身、フランスで禁書であったヴォルテール全集をフランス国境に近いドイツの町で印刷・出版し、こうした出版市場の地盤を作っていました。

● モーツァルト、ダ・ポンテ、 ヨーゼフII

1785年から86年にかけてモーツァルトとダ・ポンテによってイタリア語のオペラ『フィガロの結婚』が作られたのは、原作の戯曲がこのようにヨーロッパじゅうで話題になっている最中のことでした。

ダ・ポンテの証言によるとボーマルシェの『フィガロ』のオペラ化の話を彼に持ちかけたのはモーツァルトでした。1785年秋のことといいます。戯曲『フィガロ』のウィーンでの受容においてそれ以前の重要な出来事は、1785年2月に、『魔笛』で有名になるシカネーダーがドイツ語訳版によるその上演を計画しながら上演禁止された事件でした。パリに比べ保守的なウィーンではその上演の政治的土壌は整っていませんでした。

こうしたいわくつきの題目をモーツァルトがなぜ取り上げようとしたかについてはいろいろな見方がありますが、一つ言えるのは、彼が1784年暮れより加盟していたフリーメーソンの人々や、その人脈に近いこの都市の開明的な人々の間で『フィガロ』に対する関心が高かったということです。この都市でのオペラの成功がなにより欲しかったモーツァルトにとって、これらの人々と交わる中で、『フィガロ』のオペラ化について、リスクは感じながらも、ある程度の成功の感触をつかんでいたのではないでしょうか。

しかしモーツァルトだけのアイディアでは実現不可能な企画でした。ここで台本作家のダ・ポンテが重要な役割を果たします。ダ・ポンテは、皇帝ヨーゼフ2世がウィーンでのイタリア劇の梃子入れのために頼りにした人物で、モーツァルトと違い直接に皇帝に話ができました。ダ・ポンテの証言によれば、その直談判の結果、政治的に不穏当な部分の削除を条件に上演許可がおりることになります。見切り発車で仕事を続けていたモーツァルトとダ・ポンテの賭は結局勝ち、それ以降もダ・ポンテの才覚溢れる交渉により、上演について皇帝のさらに明確な支持を取り付けていきます。

皇帝との会話をダ・ポンテはその回想録に残しています。晩年に書かれたダ・ポンテの回想録は潤色があることは知られておりそのままは受け取るのは危険ですが、少なくとも皇帝とのかけひきの中で上演の指示を取り付けていく自らの姿を描こうとしているのは分かります。

皇帝の『フィガロの結婚』への関わりは一種一貫しないところがありました。この時期、啓蒙思想を統治の指針にしようとしていた彼が、この作品の新鮮な魅力に惹かれると同時に、治安の維持や保守的な貴族の手前その作品の危険性に慎重にならざるを得ないという二つの態度に揺れていました。その迷いをダ・ポンテはうまくついて事を有利に運んだように見えます。

● 言葉の力

女性たちの注文に悩まされていたルイ16世、啓蒙君主であろうとしたヨーゼフ2世、そうした宮廷を舞台にボーマルシェやダ・ポンテという才覚のある人物が、陰謀の渦巻く中を泳ぎ回りながら自らの演目の上演に漕ぎ着けていく現実の様は、ミニ宮廷であるアルマヴィーヴァ伯爵の館でのフィガロや女性たちの才気溢れる生き生きとした姿と二重写しになります。

そこでは言葉による交渉・約束が – 舞台裏での欺しあいや裏切りをも含め - 最大の価値を持っていました。劇冒頭で最大の問題として提示された伯爵の初夜権の問題にしても、中世のように領主がそれを力ずくで行使できることはなく、結局は自由に発想し、言葉の駆け引きに勝ち、多数を味方に引き入れ高らかに歌う者が勝利することになります。逆にフィガロが債務と引き替えに意に添わぬ相手とあわや結婚を余儀なくされるのも、絶対の遵守が要求される契約書の存在によってでした。

ダ・ポンテの台本はボーマルシェの戯曲にあった社会的批判の部分を削除したことで今では多くの批判を受けています。しかし、いったんオペラとしてそれが舞台の上で展開するとき、明るいイタリア語の響きとともにその言葉の力は衰えることがなく、そしてモーツァルトの音楽の言葉を得ることによってさらに生き生きと輝いて聞こえはしないでしょうか。

* 媒体の性格や字数上、参考文献の注など入れることができず、結論のところも展開不十分のままに終ってしまいましたが、とりあえず現状で採録。

Posté par O.T.

Sunday 3 May, 2015

「優しい夢たちよ、戻ってきて」 - フランツ・リスト=マリー・ダグー書簡集(続)

1833年5月5日、日曜未明にマリー・ダグーがリストあてに Croissy の館から書いた手紙 の後半で、もう一度だけドイツ語の簡単なフレーズが出てくる。

ここで過ごしている悲しい日々の中で、私はいつもいつも繰り返しています -- 戻ってきて、優しい夢たちよKehret wieder holde Träume 。

これにも出典があるのだが、2001年版の書簡集でもそれは見過ごされているのか、注釈がない。が、この短いフレーズが指し示している全体を知ることは手紙を書いていた人間の心持ちを知る上で決して無益ではない。

若干語順の入れ替わった「優しい夢たちよ、戻ってきて Holde Träume kehret wieder 」は、シューベルトの歌曲《夜と夢 Nacht und Träume》(D.827。作詞 マテウス・フォン・コリン)の最後の一節だ。

Schubert_Werke_Breitkopf_Serie_XX_Band_8_F.S.829.jpg
夜と夢 Nacht und Träume
聖なる夜よ、お前が降りてくると
夢もまたふわふわと降りてくる
お前の友の月の光が、辺りにそそぐように
人々のしんとした胸にしみ入るように。
その夢に心地よく耳をすましていた人々は
朝が目覚めてくると呼びかけるのだ
戻ってきて、聖なる夜よ
優しい夢たちよ、戻ってきて
Heil'ge Nacht, du sinkest nieder; Nieder wallen auch die Träume Wie dein Mondlicht durch die Räume, Durch der Menschen stille Brust. Die belauschen sie mit Lust; Rufen, wenn der Tag erwacht: Kehre wieder, heil'ge Nacht! Holde Träume, kehret wieder!

作詞 Matthaeus Kasimir von Collin 作曲 Franz Peter Schubert 楽譜初版 1825

手紙の中のこうした引用は、この曲が二人にすでに共有されたことを推測させる。そして、曲がわかったことで、今やわれわれにも、手紙を書きながら彼女が心の中でどんな音を聞いていたのか、自分の知る歌の歌詞の一節を手紙の中に認めたリストの頭の中にに何が鳴ったのかが想像できる。

Franz Schubert Nacht und Träume D.827 (Gérard Souzay & Jacqueline Bonneau)
 

別れ別れになっていた恋人たちが、心の中でその音を互いに聴いたとき、その心は、そのときたしかに、ひとときの間ではあるにせよもはや地面にしばりつけられてはいなかったろう。

Posté par O.T.

Saturday 2 May, 2015

「足は縛られている」 - フランツ・リスト=マリー・ダグー書簡集

2001年にFayard から出版された『フランツ・リスト=マリー・ダグー書簡集 Correspondance Franz Liszt Marie d'Agoult (presentée et annotée par Serge Gut et Jacqueline Bellas)』、二人の書簡集としてはほぼ70年ぶりの本格的な新版。二人の親密な関係がはじまった1833年から、決別の1844年を経て、1864年までときおりやりとりされた手紙を含む562編を収める。現在できうる限りの文献学的考証と詳細な注が付されている。 

Liszt-MarieDaGoult-Correspondance.jpg

 

そもそもこの二人が初めて出会ったのは1832年末。このときリストは21歳、有名ピアニストではあったが、まだ作曲家というようなものではなかった。マリーは27歳。家どうしの金と名誉の交換に大ブルジョワの娘が没落貴族に嫁ぐという典型的な人生行路に入り、もう5年来ダグー伯爵夫人となっていた。娘が二人。 

 

残っている書簡で音楽家の若者と伯爵夫人の二人の関係がただものでなくなったというのが分かりはじめるのは1833年3月あたりから。そして1835年5月末に二人が別々にパリを逃れバーゼルで落ち合い、いわゆる駆け落ちの旅が始まるまでの2年強の期間に、両者あわせて100通以上の手紙が残されている。 

 

1833年の春から二人の手紙には英語とドイツ語がまざるようになる。手紙が誤って人目に触れたときに簡単に読めないようにするために二人がこらした工夫の一つだ(マリー・ダグーはリストに手紙の表書きを女文字で書くようにと頼んだりもした)。 

 

ドイツ語で書くのには別の意味づけもあっただろう。フランクフルトの銀行家の娘に生まれ、教育のためにフランスにやられたマリーにとって、それは親しい母語の一つであったし、12歳でオーストリア帝国領内から父親につれられパリに移住してきて以来フランス語ですべてをまかなっていたリストにとっては、ほぼ10年ぶりにまともに触れる忘れかけたことば、取り戻すべきことばであった。そしてそのことばはパリの社交界の中で、二人を結び付けるかおぼつかない絆であったに違いない。その絆は、そのことばを二人で自由にあやつることにではなく--リストは結局、この幼少時に失われたことばを完全には取り戻せなかった--、そのことばがそれを通して、彼らの愛する詩人や音楽家への思いをかきたてることにあった。 

 

 

1833年4月末から5月末にかけて、マリー・ダグーはパリを留守にする。4月半ば、パリ郊外のクロワッシー(Croissy。現在では、隣町との合併によりCroissy-Beaubourg 市)に買った館を整備・管理するためである。その1か月は二人にとってはじめての長い別離であり、彼らに感傷的なトーンに満ちた長い手紙を交させた。 

 

傍証から1833年5月5日と日付が同定されるが、書き手の手によっては「日曜日午前3時」とのみ最初に記されたマリー・ダグーからリストへの手紙(書簡集での通し番号15)は次のように始まる。 

 

それは彼だった…それは私だった。あなたはある日こんな風に言いました。私のことをこれほどまでに愛しているから、私の姿を見る必要もないくらいだと。私はその考えに驚いたものでした。しかし今私はそれがまったく真実だと感じています…あなたはここにいる、いつも。そして私はあなたを日常のほんのささいなことの中にも見るのです…

 

音楽家を描くとき偉人風あるいは悲劇の人風なのがデフォルトの音楽史の本では、音楽家やその配偶者・恋人が書いたこの手の手紙の文面は、やたら深刻に受け止められる傾向があるが、27歳の人妻が21歳の若者へたかだが1週間くらいの別離で書いたものと考えると、むしろほほえましいくらいセンチメンタルだ。だいたいが、この時期の二人の手紙は恋する若者の心の動揺を反映して、よく支離滅裂になる。手紙は、「髪をセットしてもらっているときも、食事をしていても、コーヒーを飲んでいても、外で木のところに座っていても、あなたのことばかり見ているわ...」(大意)みたいな話が続いたあと、「前に読んだ本のなかからぐっときて書き抜いた次のことばを毎晩寝る前に見ています」という。さてそのぐっとくることばというのが問題だ。書簡集にあるとおり引用すれば 

 

Nicht ist der Geist doch ist er fast gebunden ! [sic] 

 

この手紙の中ではじめて用いられるドイツ語の句だが、これはこの書簡集の注釈者を悩ませたらしい。そのとまどいは [sic] ( [ママ]) という語に端的にあらわれている。この句はドイツ語として意味がよく通らないのだ。注釈者は仕方なく、脚注で次のように解説する。 

 

ほとんど意味のとおらない引用。もしかしたら引用時の写し間違い。Nicht ではなく Nichts と読むべきであろう。

 

そして上のように Nicht (=英語 not)を Nichts (=英語 Nothing)と置き換えた読みで、次のような苦しまぎれの訳をつける。 

 

精神は何でもない。しかしそれはほとんど縛られている (L'esprit n'est rien ...)。  

 

しかし、いくら感傷的になっているとはいえ、相手に自分の気持ちを伝えるときの、ここぞという大事な一発の決まり文句に、よく意味もわからず写してきたあやふやな文を使うものだろうか。しかも彼女にとってはドイツ語は母語だ。 

 

実をいうと、この書簡集が確定している読みに、ささいだが、決定的な誤りがあり、そのために意味が通らなくなっている。このあたりの書簡は自筆資料が失われてしまったため、2001年版の書簡集も1933/34年の書簡集が活字起こししたものに、別の角度から校訂を加えながら頼るしかないが、この部分は1933/34年版の誤りを見抜けなかった例だ。正しい読みとほぼ言い切れるのは、 

 

Nicht ist der Geist doch ist der Fuβ gebunden ! 

 

つまり er fast (それはほとんど)と読み取られていた部分は、自筆が正確に確認できれば der Fuβ (足)になっていたはず。だから、元の文の意味は、直訳すれば 

 

精神はそうではない、けれども、足は縛られている。 

 

ところでなぜ、元の資料が失われているのに、これが正しいと言い切れるかというと、彼女が読んでいておかしくないと思われる作品に、このフレーズがそっくり出てくるからだ。ゲーテの1827年に出版された詩集(****)の中の第17編の詩。「バイロン卿へ An Lord Byron」という献辞ではじまるこの詩の第1連の4行目が "Nicht ist der Geist, doch ist der Fuβ gebunden." パンクチュエーションだけが違う。マリー・ダグー自身が、ある本から書き抜いたと言っているが、そのでもとの本はこれということで決着だろう。 

 

新しく確定した文句を、元の手紙の文脈にもどしてひらたく言えばこういうことになるだろう。 

 

たしかにあなたの言うとおり、こうして会っていなくても、私の心にはあなたが見える。でもね...たとえ心は自由に飛んでいけても、やっぱり足はこの大地に縛られているまま。 

 

精神が出会えるから、心の目で見えるからいいではないか、という男に対し、たしかに私もその経験はわかるといったん認めたあとに、でも肉体の接触は物理的距離に束縛されているではないか、というずばりの問いかけを、ゲーテの詩から文脈をはずしてとってきた句でさらりと決めている。しかもリスト自身にとってヒーローであり、彼自身がそうたとえられもすることになるバイロンという人物に捧げられた詩からの引用で。これだけのワザと気持ちのこもった引用を「意味の通じないあやふやな引用」と注釈者が決めつけてしまったのは、彼女の知性・教養と心情にたいして不当な仕打ちといえる。 

 

この若い恋人たちの心はセンチメンタルに揺れ動き、矛盾もしているが、その揺れ動きかたや矛盾にも一貫したロジックがある。そしてそれぞれのことばは考えながら選ばれていて、手当たりしだいにテキトーに借りてきたものではない。なにせことばの書かれた手紙だけがたよりだった時代だ。

 

※2005年3月に某SNSに書いた文章を少しの手直しとともに再録。

 

※※こんな発見を素知らぬ顔で書いて、いかにも博識そうに見せる手もあるが、タネを明かせば、Google に働いてもらった結果である。

http://www.wissen-im-netz.info/literatur/goethe/gedichte/25.htm 

1933/34年版のドイツ語訳が出たときにも見落とされていた出典の問題が、Google で10分で解決されてしまったのだから恐ろしいこと。調べに乗り出すきっかけになんらかの個人的直感があったとはいえ。訓古学の大きな部分を占めていたテキストレベルでの個人的な博識の役割というものが決定的に変ろうとしている。

 

※※※ これを書いたあと、この情報は友人を介して編者のSerge Gut氏に伝えるように頼んだがその後については知らない。そしてそのSege Gut氏も昨年2014年3月31日に亡くなった。

 

※※※※  J. W. Goethe, Gedichte: Ausgabe letzter Hand (Stuttgart und Tübingen: Cotta, 1827) 。さらに初出を遡れば、G. G. Byron, The Works of Lord Byron Complete in One Volume (Frankfurt am Main: H. L. Brœnner, 1826)の序文に見ることができる。初出、M. ダグーが触れた典拠の問題の詳細については別途に調査する必要がある。

Posté par O.T.

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